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ペングエン トルコの風刺かわら版
ペングエン トルコの風刺かわら版 トルコ語で「ペンギン」を意味するこのかわら版は、2002年に創刊され、トルコと北キプロス共和国で出版されている。エンブレムは空を飛ぼうとするペンギンである。 週刊紙 値段トルコでは4リラ(約160円)、北キプロスでは5リラ(約200円)2015年10月現在 紹介するのは2015年9月24日版 表紙 羊「僕は逃げるよ、良いお祭りを」 ヒジュラ暦12月10日から4日間、イスラム教には動物(羊など)を生贄としてささげるクルバン祭という一大行事がある。国民の休日でもあるこの日に、当の羊が休暇で旅行に出かけてしまい、残された人間たち(お父さんの手にナイフが握られているのは生贄のため)があっけにとられている。 3ページ 2015年のクルバン祭は9月にあったが、偶然これが選挙と重なり、国内で政党間の緊張が高まった時期でもあった。 中央の、牛と羊の絵が描かれている一コマ漫画では、クルバン祭で生贄にされないよう逃げている牛や羊をそっちのけで夜の街を走り回る男たちが描かれ、牛が羊に対して「僕たちが目当てじゃないから安心しな!」と言っている。 羊ではなく、政敵を追いかけ回しているのだ。 4ページ 中段に描かれている緑色のカエルのような生き物、それがトルコの「宇宙人」のイメージである。なぜか太っていて、目が上に突き出している。そして話すことといえばもちろん、サッカーについて。 宇宙人「この惑星のことはすべて理解した。けれどオフサイドがわからない」 男「ああ!(なんてこった)」 関連記事 ・ハジャマット トルコの宗教的風刺かわら版 ・ウイクスズ トルコの風刺かわら版
ハジュ・アブドゥッラー レストラン
トルコ伝統料理レストラン ハジュ・アブドゥッラー Hacı Abdullah 今日イスティクラール通りから一歩入ったところにあるトルコ料理店ハジュ・アブドゥッラーの創業は1888年。カラキョイに構えた店は、スルタンアブドゥルハミッド2世の賓客の接待場でもありました。営業許可はスルタン自らが手渡したそうです。その後、店はタクシムに移ります。同じ地区で小さな引っ越しも数回し、店名が変わった時期もありましたが、料理には創業当時の味が確実に受け継がれています。それは、この店がアヒー(Ahi)という伝統的な職人組織の経営形態を採用し、店の所有権がシェフから弟子へと受け渡されてきたからです。こうして、経営者が変わると料理の味も変わってしまうことを防いでいるのです。店に入ると、色とりどりの果物や野菜の瓶詰めが目に飛び込んできます。タクシムに行ったら、足を運んでみては。言葉がわからなくても、料理を見ながら選べるのも嬉しいですね。 ハジュ・アブドゥッラーのカラフルな漬物の展示は一種のアートとも言える。 落ち着いた雰囲気が魅力的
ジャン・チャクムルが語る浜松国際コンクールの全て
このインタビューはアートをテーマにしたトルコのブログ「芸術の木霊」(Sanattan Yansmalar)により、2018年12月2日にドイツのヴァイマールで行われたものです。 ジャン・チャクムル 「芸術は世界の美しさの表れであり、世界をひとつに結ぶ力を持っている」 コンクール参加を決めた経緯は?怪我をした指をどうやって治したのか?コンクールから得たものは?誰から優勝を祝ってもらった?2019年はどんな年になりそう?このインタビューで全てが語られる。 第10回浜松国際コンクールで優勝し、クラシック音楽界で大きな飛躍を遂げたジャン・チャクムルは1997年生まれ。中東工科大学付属高校卒業後、現在はフランツ・リスト音楽大学で最終学年に在学中である。コンクール後は、肉体的にも精神的にも疲労困憊して日本からドイツのヴァイマルへ戻ってきた。にもかかわらず、我々と会う時間を作り、質問に答えてくれた。ジャンの今後ますます増えるだろうコンサート活動と、音大生としての勉学の成功を祈る。 Q スコットランドピアノコンクールで優勝してから、世界中の権威あるコンクールの情報を集めはじめたの?それとも誰かがアドバイスしてくれるのかな? A ネット時代に生きる僕たちは、世界中のすべての出来事をフォローできるので、幸運です。大きなピアノコンクールは開催時期が決まっているので、誰もがほぼすべてについて、いつ行われるかを把握しています。浜松のコンクールに出たいという考えは、2015年からずっと頭の片隅にありました。 Q では、出場はどうやって決めたのかな? A 実のところ、スコットランドでのコンクール後、出場しようかどうか迷った時期があり、先生方にも相談しました。ただ、この2つのコンクールは開催地も遠く離れていますし、浜松が国際的にも権威があることから、出場を決意しました。大きなコンクールにはどれも30歳以下という年齢制限がありますから、この12月で21歳になる僕には、一番多くてあと3回出場の機会が残されていることになります。 Q 出場者に顔見知りの人はいたの? A ピアニストの世界はかなり狭いですよ。コンクール出場者88人中少なくとも20人は知っていました。このうちの数人は仲のいい友人です。初めて会った人たちとも、すぐに仲良くなりました。 Q 11月7日から始まったコンクール期間はかなり長かったね。初めて訪れた国の慣れない環境のもと、手ごわいライバルに囲まれて、この期間がどんなだったか聞かせてくれるかな。 A コンクール期間は、それ以前の準備期間に比べると、かなり快適に過ごせました。久しぶりに友達たちと再会する機会になりましたし。日本文化と生活スタイルに慣れるには何日かかかりました。トルコ文化、そしてヨーロッパ文化とは全く違いますね!でも何といっても和食は本当に素晴らしいです。すぐに好きになり、帰りたくないと思ったくらいです。 コンクールのレベルが高いので、やる気がますます高まりました。あれほど刺激的なミュージシャンたちと同じ場所にいられること自体が幸せなことです。ストレスを感じるどころか、参加できて本当に幸運だと気づかされました。 選考が数日か間を置いて行われたことが、出場者にとって良かったのか悪かったのかはわかりません。通常コンクールの予選は1日おきに行われて、早く終わります。浜松の場合、選考過程がもっとずっと長く続きます。長い準備期間があったのは確かですが、まさにこの理由で心理的には長期間自分をコントロールしなければなりません。期間が長くなればなるほど、集中力を保つのも難しくなり、肉体的にもストレスが増して、厳しくなってきます。 つまり、期間中は、本当に疲れました。でも、ステージに立って、そこで演奏できることは本当に楽しかったです。 Q 指を痛めたそうだけれど、どうしてそんなことに?コンクールを棄権することは考えた?指の治療はどうやったのかな? A ピアニストの中には慢性的にこの問題に悩まされる人たちがいます。立て続けにコンサートがあり、いつも以上に練習すると、指と爪の間の肉が離れてしまうのです。日常生活には困りませんが、ピアノの演奏には妨げとなります。普段ならば数日練習せずに指を休ませることで問題は解決しますが、コンクールの最中に、しかも第三次予選に残った時点ではそんなことはできませんでした。このようなときのためにといつも持っている薬用のクリームがあるのですが、指が痛くなる前に日本のどこかで無くしてしまいました。日本でこのクリームと同様のものがあるとわかりましたが、病院で医師の診察の後しかもらえないと聞いて本当に困りました。すると、コンクール出場を機にコンタクトをとるようになったトルコ大使館の駐日トルコ大使ムラト・メルジャン氏が、奇跡的なことに僕が使っているクリームと同じものを大使館内で見つけ、すぐに東京から浜松に送ってくださいました。これがどれほど役に立ったか!今一度お礼申し上げます。第三次予選まであと2日しかなく、その1日目は指の痛みからピアノを触ることさえできませんでした。演奏できないのではないかと心底怖かったです。ですが、緊迫した場面で人間の体には信じられないことが起こります。普段なら治るのに4-5日はかかるのですが、緊迫感と、もちろんクリームのおかげもあって、1日経つとよくなった、というか、少なくとも痛みを感じなくなってきたのです。 Q 室内楽で共演した演奏者たちについての感想を聞かせてくれる? A 言うことなしの素晴らしいミュージシャンたちです。リハーサルには50分という短い時間しか与えられていませんでしたが、彼らの卓越した順応能力のおかげで、演奏は格段によくなりました。本番での演奏にもみんなが満足できました。そして何よりも、みんなが楽しく演奏できたのです。それでも、リハーサル時間があと1時間あったらと思わずにはいられませんが…。 Q コンクール中一番緊張したのはいつかな? A 難しい質問です。そもそも緊張するというのはふさわしい言葉なのかどうか。なぜならコンクール中はあまりに目まぐるしくて、緊張する暇さえないのです。でもやはり、第一次予選は僕にとっては一番きつく感じられました。まだ一次予選なのに1500席のチケットが何週間も前に完売されているホールで、未経験の音響下で、初めてのピアノで演奏するのですから。それに加えて一次予選そのもののストレスもありました。出場者全員が最高レベルの88人のピアニスト中、予選の結果64人が次に進めなくなるのです。そして、出場者に与えられた20分の演奏時間は実に短い。本当の自分の演奏ができる前に終えなければならないのです。 Q 本選で日本人4人、韓国人1人と競うことになり、コンクールが日本で行われていることから、優勝の望みはないと思ったことは? A それは全く考えませんでした。僕は、賞をとるためにコンクールに出ようという人はいないと思っています。コンクール中は厳しい日々が続きます。ピアノを弾くこと、美しい音楽を作り出すことに全神経を集中しなければならず、実際そうしています。このような状況下では、勝ち負けは頭をよぎることさえないのです。そもそも、本選出場者が発表されたとき、友人から言われるまでは、日本人、韓国人でないのは僕だけだということに気づいてさえいなかったのです。 Q ピアニストが国際的に認められ、演奏依頼を受けるようになるにはきっかけが必要だね。コンクールはその最たるものだけど、浜松で優勝したことで、道が開けたと思う? A もちろんです。今の段階だけでも、大きな依頼を受けています。BIS社で収録するCDは全世界で売り出されますし、東京交響楽団とのコンサートツアーやロンドンのバービカン・センターでのコンサートなどがあります。そして、演奏依頼が何年間にも渡って継続的に来ているということが重要なのです。 Q 優勝だけでなく室内楽賞も取ったのだから、これからは忙しくなるね。スコットランドピアノコンクール勝者としてのコンサートがあり、浜松の優勝者ツアーも始まるわけだから。どうやって準備するの? A 優勝者に与えられた賞の1つで、たぶん最も重要なのが、ロンドンのIKON Arts Management社との契約が始まったことです。この会社と日本の関係団体の幹部の方々が集まって、本選の翌日から何度か会合が持たれました。その結果、充実したスケジュールが組まれ、これで第一歩を踏み出したのです。1月には日本でBIS社とCD収録があります。それから2月末までは比較的時間があります。この間に、翌月から演奏する曲の準備をするつもりです。3月からは、スコットランドでロイヤル・スコティッシュ管弦楽団とのコンサートから始まり、4月以降はタイトなスケジュールでコンサートが続きます。スコットランドコンクール優勝でいただいたコンサートと浜松勝者に与えられがコンサートが重なり、今の段階ではいくつになるのか僕にもわかりません。例えば7月末までに日本で15回ほどコンサートが予定されています。来年のスケジュールが確定するのは12月末になります。 Q 今月イタリアでコンサートがあるらしいね。 A 来週モデナとフェルモでリサイタルがあります。1月からは日本でCD収録が始まるのです。 Q 偶然訪日中だった文化観光大臣と会う機会があったそうけれど、どうだった?大臣からの祝福の言葉のほかに、トルコ政府の反応はどうだったのかな? A コンクール後にも予定があったので、11月28日まで日本に滞在しました。この期間に駐日トルコ大使ムラト・メルジャン氏のお計らいで、文化観光大臣メフメット・ヌーリー・エルソイ氏に東京でお目にかかりました。また、文化観光大臣メフメット・ヌーリー・エルソイ氏と教育大臣ズィヤー・セルチュク氏がお祝いのメッセージをソーシャルメディアで発信してくださいました。トルコで、そして世界中でそうですが、我々は分極化した時代を生きています。僕は、芸術は世界の美しさの表れであり、世界をひとつに結ぶ力を持っていると強く信じています。感性に満ちた心は、周囲の人間の心に働きかけ、ともに鼓動させるのです。 Q 今後出場を考えているコンクールは? A 難しい質問ですし、時期尚早です。浜松で優勝したことで、生涯ずっと定期的にコンサート活動が続けられる可能性が生まれました。今言えるのは、今後3年間がとても忙しくなるということです。それから後のことは、いずれはっきり見えてくると思います。 シェフィク・カフラマンカプタン 2018年12月2日 http://www.sanattanyansimalar.com/can-cakmur-sanat-dunyanin-guzel-yuzu-birlestirici-gucu/4089/ シェフィク・カフラマンカプタン Şefik Kahramankaptan プロファイル(トルコ語)
海難1890-ノベライズ本
小松江里子脚本、豊田美加著『海難1890』小学館。 12月の公開が待たれる映画のノベライズ本です。 エルトゥールル号遭難事故とイラン在留邦人救出事件について本書で予習をすれば、より映画を楽しめるのではないでしょうか!(日土会お推薦の本) 内容(「BOOK」データベースより) 一八九〇年、親善訪日使節団を乗せたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本沖で沈没した。六〇〇名以上が嵐の 海に投げ出される未曽有の大惨事。だが地元住人たちの懸命な救助活動により六十九名の命が救われ、母国トルコへの帰還を果たす。時は移って一九八五年。イ ラン・イラク戦争に伴いフセインはイラン領空の航空機無差別攻撃を宣言。各国は自国民の救出に動くが日本には手立てがない。多くの在留邦人の身に危機が 迫っていた―。日本・トルコ友好百二十五周年記念映画を完全ノベライズ。時を隔てた二つの出来事には、深い絆の物語があった。 DVDもでました!
今月のトルコの風刺漫画 2018年10月 エルディル・ヤシャロール
今月のトルコの風刺漫画 2018年10月 エルディル・ヤシャロール エルディル・ヤシャロール 風刺漫画家 プロフィール
『トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』
『トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』 2008年 三一書房 新井政美(監修)鈴木麻矢(翻訳) ご購入はアマゾンより 著者について詳しくはこちら <あらすじ、解説> 「トルコ史上空前の60万部を超える大ベストセラー世界初訳! 1918年、第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国は列強の支配下となった。為政者たち は保身のため自ら国を差し出すかのように振る舞い、国内は混迷の極みに達する。その中、トルコ共和国建国の父、ムスタファ・ケマルは立ち上がり、卓抜した 戦略と指導力、加えて国民自身の独立への熱狂的な渇望によって、内憂外患の言葉では足りないほどの絶望的情況を打破し、独立を勝ち取る。 トルコにて驚異的な売上げを誇る本書は、トルコの人々の「愛国心」がどのようなものかを示し、歴史小説の枠を超えて、現代、そして将来のトルコ共和国を理解するためにも不可欠の一書である。」 関連記事 ・改宗者クルチ・アリ教会からモスクへ ・私の名は赤