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ハンデ・イェネル Hande Yener (1973年1月12日-)イスタンブール出身。トルコのシンガーソングライター、音楽プロデューサー。「トルコPOP界の女王」と呼ばれたことから10thアルバムを自ら「Kralice(女王)」と名付け話題になった。 ハンデ・イェネル「Kışkışşş 」 ハンデ・イェネル「Hadi Bana」 関連記事 ・セゼン・アクス ・ベンギュ
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『口で鳥をつかまえる男 -アズィス・ネスィン短編集-』
『口で鳥をつかまえる男 -アズィス・ネスィン短編集-』 藤原書房 2013年 アズィス・ネスィン(著) 護雅夫(翻訳) 著者についてはこちら <内容(本書解説より)> 「二〇一一年六月、近づく総選挙でトルコの政治は連日過熱気味。そんななか、与論調査で与党公正発展党の支持率が五〇%近いのをみたある著名な劇作家が、「アズィス・ネスィンの基準によれば公正発展党への支持率は六〇%にいくはずだ」と発言し、物議を醸した。これが、「トルコ人の六〇%はバカだ」というアズィス・ネスィンの言葉を受けたものであることは、トルコの人ならば誰でもすぐにわかる。「アズィス・ネスィン的な」という表現はトルコでは色々な場面に使われる。無神論者という彼の宗教的立場を思い出し、非難の言葉にもなるだろう。しかし、多くの場合は「アズィス・ネスィン的」とは、愚かな人々が巻き起こす、悲喜劇的な物事の展開をさしている。地中海性のトルコの人々は、明るくポズィティブだが、その一方でとても自嘲的だ。愚かで呆れた出来事には「これだから、ここはトルコ!」の一言。トルコではよく聞く言葉だ。 アズィス・ネスィンの描いたトルコは、こうした自嘲を常とするトルコの人々にとって、まさに苦笑いして眺める自画像だったのだろう。アズィス・ネスィンはトルコを愛し、憂い、からかい、そして自分自身が「愚かな」トルコ人の一人であることを示し続けた。自身を六〇%の中に見ていたからこそ、人々の共感を得ていたといえよう。この勇気ある作家は今でも、多くの人々の記憶の中で生きている。」 (解説 林佳世子) ご購入はアマゾンから 関連記事 ・最後の授業 ・乳しぼり娘とゴミの丘の御とぎ噺
『心の平安』 Huzur
『心の平安』 Huzur 2015年藤原書店 アフメト・ハムディ・タンプナル(著) 和久井路子(翻訳) 著者についてはこちら <あらすじ> 「トルコ近代文学の父」の代表作、ついに完訳! 東と西が出会う都市イスタンブールを舞台に、西洋化とオスマン朝の伝統文化への郷愁との狭間で引き裂かれるトルコの知識層青年の姿を、甘美な恋愛劇と重ねて描きだす。 「僕たちはお互いを愛しているのだろうか、それともボスフォラスを愛しているのだろうか?」 トルコ共和国建国から約十五年、第二次世界大戦勃発前夜におけるイスタンブールの青年たちの物語。 主人公ミュムタズは幼い頃に両親を相次いで喪い、以後は、歳の離れた従兄であるイヒサンに引き取られる。ミュムタズは、歴史家であり東西の文化に造詣の深 いイヒサンを精神面でも父とし、長ずるにつれてオスマン朝時代の伝統文化(文学、芸術、骨董)を深く愛するようになる。研究者となったミュムタズは、博士 論文を書き上げたのち、ボスフォラス海峡を渡るフェリーで、夫と別れたばかりのヌーランと運命的に出会う。意気投合した二人は、イスタンブルの街並みに伝 統の美しさを訪ね歩くなかで愛を深め、ついに結婚の意思を固めるが……。 甘美なラブストーリーと伝統文化の美と神秘、そしてイスタンブルというトポスの魅力が渾然として描きだされた不朽の名作。 購入はアマゾンから 関連記事 ・新しい人生 ・改宗者クルチ・アリ教会からモスクへ
ジャン・チャクムルが語る浜松国際コンクールの全て
このインタビューはアートをテーマにしたトルコのブログ「芸術の木霊」(Sanattan Yansmalar)により、2018年12月2日にドイツのヴァイマールで行われたものです。 ジャン・チャクムル 「芸術は世界の美しさの表れであり、世界をひとつに結ぶ力を持っている」 コンクール参加を決めた経緯は?怪我をした指をどうやって治したのか?コンクールから得たものは?誰から優勝を祝ってもらった?2019年はどんな年になりそう?このインタビューで全てが語られる。 第10回浜松国際コンクールで優勝し、クラシック音楽界で大きな飛躍を遂げたジャン・チャクムルは1997年生まれ。中東工科大学付属高校卒業後、現在はフランツ・リスト音楽大学で最終学年に在学中である。コンクール後は、肉体的にも精神的にも疲労困憊して日本からドイツのヴァイマルへ戻ってきた。にもかかわらず、我々と会う時間を作り、質問に答えてくれた。ジャンの今後ますます増えるだろうコンサート活動と、音大生としての勉学の成功を祈る。 Q スコットランドピアノコンクールで優勝してから、世界中の権威あるコンクールの情報を集めはじめたの?それとも誰かがアドバイスしてくれるのかな? A ネット時代に生きる僕たちは、世界中のすべての出来事をフォローできるので、幸運です。大きなピアノコンクールは開催時期が決まっているので、誰もがほぼすべてについて、いつ行われるかを把握しています。浜松のコンクールに出たいという考えは、2015年からずっと頭の片隅にありました。 Q では、出場はどうやって決めたのかな? A 実のところ、スコットランドでのコンクール後、出場しようかどうか迷った時期があり、先生方にも相談しました。ただ、この2つのコンクールは開催地も遠く離れていますし、浜松が国際的にも権威があることから、出場を決意しました。大きなコンクールにはどれも30歳以下という年齢制限がありますから、この12月で21歳になる僕には、一番多くてあと3回出場の機会が残されていることになります。 Q 出場者に顔見知りの人はいたの? A ピアニストの世界はかなり狭いですよ。コンクール出場者88人中少なくとも20人は知っていました。このうちの数人は仲のいい友人です。初めて会った人たちとも、すぐに仲良くなりました。 Q 11月7日から始まったコンクール期間はかなり長かったね。初めて訪れた国の慣れない環境のもと、手ごわいライバルに囲まれて、この期間がどんなだったか聞かせてくれるかな。 A コンクール期間は、それ以前の準備期間に比べると、かなり快適に過ごせました。久しぶりに友達たちと再会する機会になりましたし。日本文化と生活スタイルに慣れるには何日かかかりました。トルコ文化、そしてヨーロッパ文化とは全く違いますね!でも何といっても和食は本当に素晴らしいです。すぐに好きになり、帰りたくないと思ったくらいです。 コンクールのレベルが高いので、やる気がますます高まりました。あれほど刺激的なミュージシャンたちと同じ場所にいられること自体が幸せなことです。ストレスを感じるどころか、参加できて本当に幸運だと気づかされました。 選考が数日か間を置いて行われたことが、出場者にとって良かったのか悪かったのかはわかりません。通常コンクールの予選は1日おきに行われて、早く終わります。浜松の場合、選考過程がもっとずっと長く続きます。長い準備期間があったのは確かですが、まさにこの理由で心理的には長期間自分をコントロールしなければなりません。期間が長くなればなるほど、集中力を保つのも難しくなり、肉体的にもストレスが増して、厳しくなってきます。 つまり、期間中は、本当に疲れました。でも、ステージに立って、そこで演奏できることは本当に楽しかったです。 Q 指を痛めたそうだけれど、どうしてそんなことに?コンクールを棄権することは考えた?指の治療はどうやったのかな? A ピアニストの中には慢性的にこの問題に悩まされる人たちがいます。立て続けにコンサートがあり、いつも以上に練習すると、指と爪の間の肉が離れてしまうのです。日常生活には困りませんが、ピアノの演奏には妨げとなります。普段ならば数日練習せずに指を休ませることで問題は解決しますが、コンクールの最中に、しかも第三次予選に残った時点ではそんなことはできませんでした。このようなときのためにといつも持っている薬用のクリームがあるのですが、指が痛くなる前に日本のどこかで無くしてしまいました。日本でこのクリームと同様のものがあるとわかりましたが、病院で医師の診察の後しかもらえないと聞いて本当に困りました。すると、コンクール出場を機にコンタクトをとるようになったトルコ大使館の駐日トルコ大使ムラト・メルジャン氏が、奇跡的なことに僕が使っているクリームと同じものを大使館内で見つけ、すぐに東京から浜松に送ってくださいました。これがどれほど役に立ったか!今一度お礼申し上げます。第三次予選まであと2日しかなく、その1日目は指の痛みからピアノを触ることさえできませんでした。演奏できないのではないかと心底怖かったです。ですが、緊迫した場面で人間の体には信じられないことが起こります。普段なら治るのに4-5日はかかるのですが、緊迫感と、もちろんクリームのおかげもあって、1日経つとよくなった、というか、少なくとも痛みを感じなくなってきたのです。 Q 室内楽で共演した演奏者たちについての感想を聞かせてくれる? A 言うことなしの素晴らしいミュージシャンたちです。リハーサルには50分という短い時間しか与えられていませんでしたが、彼らの卓越した順応能力のおかげで、演奏は格段によくなりました。本番での演奏にもみんなが満足できました。そして何よりも、みんなが楽しく演奏できたのです。それでも、リハーサル時間があと1時間あったらと思わずにはいられませんが…。 Q コンクール中一番緊張したのはいつかな? A 難しい質問です。そもそも緊張するというのはふさわしい言葉なのかどうか。なぜならコンクール中はあまりに目まぐるしくて、緊張する暇さえないのです。でもやはり、第一次予選は僕にとっては一番きつく感じられました。まだ一次予選なのに1500席のチケットが何週間も前に完売されているホールで、未経験の音響下で、初めてのピアノで演奏するのですから。それに加えて一次予選そのもののストレスもありました。出場者全員が最高レベルの88人のピアニスト中、予選の結果64人が次に進めなくなるのです。そして、出場者に与えられた20分の演奏時間は実に短い。本当の自分の演奏ができる前に終えなければならないのです。 Q 本選で日本人4人、韓国人1人と競うことになり、コンクールが日本で行われていることから、優勝の望みはないと思ったことは? A それは全く考えませんでした。僕は、賞をとるためにコンクールに出ようという人はいないと思っています。コンクール中は厳しい日々が続きます。ピアノを弾くこと、美しい音楽を作り出すことに全神経を集中しなければならず、実際そうしています。このような状況下では、勝ち負けは頭をよぎることさえないのです。そもそも、本選出場者が発表されたとき、友人から言われるまでは、日本人、韓国人でないのは僕だけだということに気づいてさえいなかったのです。 Q ピアニストが国際的に認められ、演奏依頼を受けるようになるにはきっかけが必要だね。コンクールはその最たるものだけど、浜松で優勝したことで、道が開けたと思う? A もちろんです。今の段階だけでも、大きな依頼を受けています。BIS社で収録するCDは全世界で売り出されますし、東京交響楽団とのコンサートツアーやロンドンのバービカン・センターでのコンサートなどがあります。そして、演奏依頼が何年間にも渡って継続的に来ているということが重要なのです。 Q 優勝だけでなく室内楽賞も取ったのだから、これからは忙しくなるね。スコットランドピアノコンクール勝者としてのコンサートがあり、浜松の優勝者ツアーも始まるわけだから。どうやって準備するの? A 優勝者に与えられた賞の1つで、たぶん最も重要なのが、ロンドンのIKON Arts Management社との契約が始まったことです。この会社と日本の関係団体の幹部の方々が集まって、本選の翌日から何度か会合が持たれました。その結果、充実したスケジュールが組まれ、これで第一歩を踏み出したのです。1月には日本でBIS社とCD収録があります。それから2月末までは比較的時間があります。この間に、翌月から演奏する曲の準備をするつもりです。3月からは、スコットランドでロイヤル・スコティッシュ管弦楽団とのコンサートから始まり、4月以降はタイトなスケジュールでコンサートが続きます。スコットランドコンクール優勝でいただいたコンサートと浜松勝者に与えられがコンサートが重なり、今の段階ではいくつになるのか僕にもわかりません。例えば7月末までに日本で15回ほどコンサートが予定されています。来年のスケジュールが確定するのは12月末になります。 Q 今月イタリアでコンサートがあるらしいね。 A 来週モデナとフェルモでリサイタルがあります。1月からは日本でCD収録が始まるのです。 Q 偶然訪日中だった文化観光大臣と会う機会があったそうけれど、どうだった?大臣からの祝福の言葉のほかに、トルコ政府の反応はどうだったのかな? A コンクール後にも予定があったので、11月28日まで日本に滞在しました。この期間に駐日トルコ大使ムラト・メルジャン氏のお計らいで、文化観光大臣メフメット・ヌーリー・エルソイ氏に東京でお目にかかりました。また、文化観光大臣メフメット・ヌーリー・エルソイ氏と教育大臣ズィヤー・セルチュク氏がお祝いのメッセージをソーシャルメディアで発信してくださいました。トルコで、そして世界中でそうですが、我々は分極化した時代を生きています。僕は、芸術は世界の美しさの表れであり、世界をひとつに結ぶ力を持っていると強く信じています。感性に満ちた心は、周囲の人間の心に働きかけ、ともに鼓動させるのです。 Q 今後出場を考えているコンクールは? A 難しい質問ですし、時期尚早です。浜松で優勝したことで、生涯ずっと定期的にコンサート活動が続けられる可能性が生まれました。今言えるのは、今後3年間がとても忙しくなるということです。それから後のことは、いずれはっきり見えてくると思います。 シェフィク・カフラマンカプタン 2018年12月2日 http://www.sanattanyansimalar.com/can-cakmur-sanat-dunyanin-guzel-yuzu-birlestirici-gucu/4089/ シェフィク・カフラマンカプタン Şefik Kahramankaptan プロファイル(トルコ語)
セルチュク・エルデム 風刺画家
セルチュク・エルデム 風刺漫画家 Selçuk Erdem 1973年生まれ。トルコを代表する風刺漫画家のひとり。 1990年に風刺かわら版リモン Limon(現レマン Leman)にてプロ漫画家活動開始。その後、数人の仲間とともにレマンを去り、月刊誌ペングエン(Penguen / ペンギンの意味)を創立。現在も同誌で活動を続けている。動物や宇宙人、オスマン帝国兵などのキャラクターをたくさん描く。自作品をまとめた単行本も多数出版されている。 セルチュク・エルデム Facebookページ セルチュク・エルデム Twitterページ Love Turkey紹介されたセルチュク・エルデムの作品